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【銀英伝】共和制 VS 専制【歴史ネタ】

歴史ネタ編

宇宙暦640年、帝国暦331年、銀河帝国と自由惑星同盟ははじめて接触する。

以後、150年にわたる両勢力の惰性的な戦争のはじまりである。

この専制帝国と民主国家の戦争という図式は、古代において例がある。

今から約2500年前に戦われた「ペルシア戦争」(*1)である。

そもそも人類史上、最初に民主政治を実現したのがギリシアのアテネである。

アテネの当初の政体は王制であったが、前8世紀半ばには貴族制へと移行する。だが、土地 貴族の出身者がアルコン(執政官)や議会を独占する政体に対し、商工業で台頭しつつあった新興の平民たちが不満を抱くようになり、次第に両者の対立が高まっていく。

このような構図の中、ドラコンの成文法(*2)ソロンの改革(*3)によって、一応は平民の権利が拡大するが、しかし政治の混乱に嫌気がさした人々は、貴族のペイシストラトス(*4)による独裁政治を許してしまう。

だが、これが以外にも善政で、アテネにかつてない繁栄をもたらした。

そして結果として、商工業に携わる平民の力を益々高めることになった。

しかし、ペイシストラトスの後を継いだ息子のヒッピアスが暴君化したため、人々によって追放された。そして、その後に実権を握ったのが貴族のクレイステネス(*5)である。

彼の改革によって、血統や財産による特権が廃止され、成人男子に対して選挙権が与えられ、独裁者の出現を防止するための陶片追放の制度が定められた。

世界初の直接民主制(*6)の確立である。前6世紀末のことだ。

では、何故この民主国家アテネが専制国家ペルシアの侵略をうけるに至ったか?

当時、エーゲ海を挟んでギリシアのポリスの反対側にあったのが、ギリシアの植民市であったイオニア諸都市であった。だが前6世紀後半頃、古代オリエントを統一したアケメネス朝ペルシア帝国(*7)がイオニアを支配する。

前5世紀初頭、ペルシアに対する反乱がイオニアで発生。アテネとエレトリアが現地の要請で援軍を派遣し、ペルシアの都市サルディスを焼き払ってしまう。

これに怒ったペルシア帝国は、報復の遠征軍を派遣することを決意する。

前492年の第1回目は、ペルシア海軍が嵐で難破してやむをえず中止。

前490年の第2回遠征軍は、ギリシアのマラトンに上陸。だがアテネの重装歩兵軍が圧勝し、ペルシア軍は撤退する。

そして前480年、ついにペルシアは、新帝クセルクセス自ら陸海軍20万の大軍を率いてアテネに第3回目の遠征を開始する。

今度はペルシア陸軍がスパルタ軍を撃滅し、アテネに向かってせまってきた。

ここでアテネのリーダーであったテミストクレス(*8)は大決断を下す。

彼は婦女子を疎開させ、男を艦隊にのせて、アテネを脱出した。

その後、ペルシア軍はアテネになだれ込み、火を放った。

一方、海上では、アテネ海軍とペルシア海軍の艦隊決戦が行われた。テミストクレスはペルシア側にニセの情報をつかませ、サラミス湾の狭い海峡に敵艦隊を誘い込んだ。

その結 果、地の利と戦術に優れたアテネ海軍が圧勝。

ペルシアの1200隻の艦隊が大敗北を喫した。

この後、ギリシア側は陸と海の戦闘で再びペルシア軍を撃破し、ついにギリシア各ポリスの自由と独立を守り通した。

というわけで、史上初の「専制国家」対「共和制国家」の戦いは、なんとか後者の勝利で幕を閉じたのである。

しかし、その後、今度はギリシア内部で主導権争いが激化してしまう。アテネとスパルタを中心とした2大勢力に別れて、長期間にわって戦争(*9)をする。

当初、アテネは指導者ペリクレス(*10)の下、戦いを優位にすすめるが、龍城作戦中に市内で疫病が流行してしまい、ペリクレス自身も死亡。

30年に及ぶ有能な指導者を失った後にアテネに登場したのが、民衆を煽って戦争を長期化させる三流の政治屋(デマゴー ゴス)であった。

これが「扇動政治家=デマゴーグ」という言葉のルーツである。

結局、アテネは敗北し、深い混迷の時代をへて、新興のマケドニアやローマの支配を受けるまでになってしまう。

「民主国家の末期に扇動政治家が登場する」という点は、自由惑星同盟も同じであろう。

さて、銀河帝国と自由惑星同盟は1世紀半の長きにわたって戦い続けているが、長期に渡って2つの国が戦い続けた例となると、「英仏百年戦争」が挙げられよう。

1339年から1453年まで、両国はフランス内で戦い続けた。

ただし、国家間の戦争というよりも、英仏同じ血統を有する領主同士の王位継承をめぐる私戦であった。

これがダラダラと約100年にも渡って続けられたのである。

ちなみに、この戦争の終盤に登場したのが、かのジャンヌ・ダルクであった。

また「2つの勢力の争い」を広義に解釈すると、イベリア半島(スペイン)をめぐって、キリスト教徒とイスラム教徒が約800年間にもわたって争った事例も挙げられる。

711年、イスラム帝国軍が北アフリカからイベリア半島南端に侵攻してきた。

当時のイスラムは、西は北アフリカから、アラビア半島、そして東は唐・インドと国境を接する 地域までを支配する大帝国だった。

バグダードでは人口百万に達していたという。

イスラム軍は破竹の勢いで進撃を続け、わずか3年あまりで西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島のほぼ全域を手中におさめた。

これに対して、キリスト教徒側は少しずつレコンキスタ(国土回復)を開始していく。

とくにカスティラ王国・アラゴン王国・ポルトガル王国が徐々に勢力をのばし、13世紀にはイスラム系グラナダ王国を南端に追いやった。

1479年にはカスティラとアラゴンが同君連合として合併し、イスパニア(スペイン)となる。

そして1492年、ついにグラナダ王国のナスル朝は降伏し、北アフリカに去っていった。

約800年間にわたる2つの勢力の戦いは、ここに終結した。

(*1)この戦争を後世に伝えようとして、世界初の歴史書を記したのが、ギリシアのへロドトス(前484頃~前430年頃)である。敵国であるペルシアの興亡 を詳述した。

(*2)前7世紀の立法家。それまで貴族の恣意にまかされていた裁判や行政の運用を、言葉で明文化することにより、国政の透明化をはかった。だが、貴族の恣意を防止するに留まった。

(*3)前640~前560年頃。政治家でギリシア7賢人の1人。貧困者が富者の隷属にある社会状況を解決するため、借財を帳消し にして身体を抵当にすることを禁じ、また市民を財産に応じて4身分に分けて、政治参加権と 兵役の義務を明確にした(財産評価政治)。貴族制から民主制への第1歩といわれる。

(*4)前6世紀の僭主(非合法に権力をえた専制的支配者)。ラウレイオン銀山を開発して、その資金で建設事業を行い、また小農民の育成・自立政策を行うなど、ポリスと市民を富ませた。

(*5)前6世紀の政治家。市民の居住地を30の地区(デーモス)に分け、それを組み合わせて、それまでの血縁から地縁に基づく10部族制を創始。各部族から選挙によって選ばれる将軍職 (政治も担当)と、5百人の民会がつくられた。また僭主の危険がある人物として、一定票以上「陶片」に名前を書かれた者を10年間、国外追放にした。

(*6) ただし、一般の市民が政治などという「賛沢」にふけることができたのも、労働を購買奴隷にやらせていたためといわれている。

(*7)前550~前330年。アケメネス家のキュロス2世がメディア王国を倒して建国した。ゾロアスター教を信仰するイラン人の国。その後、リディア、新バビロニア、エジプトを次々に征服し、大帝国となるが、アレクサンドロス大王の東征の前に滅亡した。

(*8)前528頃~前462年頃。政治家・軍人。余剰財政で軍艦の建造を行うことを訴え、200 隻もの艦隊からなるアテネ海軍を整備した。

(*9) ペロポネソス戦争 (前431~前404年)。アテネを盟主とする対ペルシア防衛のためのデロス同盟と、古来からあるスパルタを盟主としたペロポネソス同盟の、ギリシア覇権をかけた戦争。

(*10)前495~前429年頃。アテネの民主制を完成させた政治家・軍人。国内的には、評議会・陪審法廷への出席手当の支給や下層市民への配慮など善政を敷いたが、対外的にはデロス同盟配下のポリスに強権をふるい、支配を強化した。

「銀英伝」には歴史が満ちている――気ままに歴史ネタ探求

歴史ネタ編目次 http://anime-gineiden.com/page-890

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