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【銀英伝】ラインハルト VS 門閥貴族【銀河帝国内戦の歴史ネタ】

歴史ネタ編

侵攻して来る同盟軍を完膚なさまでに叩きのめしたラインハルトを待っていたのは、皇帝フリードリヒ4世崩御の知らせだった。

外戚の専横を許したくないリヒテンラーデ侯爵は、ラインハルトと枢軸関係を結び、自己の権力基盤を強化。自身は新たに公爵に、またラインハルトは侯爵兼宇宙艦隊司令長官の座につき、皇孫エルウィン・ヨーゼフを第37代銀河帝国皇帝に擁立した。

一方、これに反発したのが、門閥貴族のブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯である。2人ともフリードリヒ4世の皇女と結婚し、皇位継承権のある娘を持つ有力な外戚であった。彼ら皇帝派に反対する貴族たちは、ブラウンシュヴァイク公の別荘のあるリップシュタットの森に集結し、盟約を結ぶ。

かくして、宇宙暦797年、帝国暦488年、両者は武力衝突へと発展し、帝国は史上最大規模の内戦に突入した。

さて、この内戦は皇位継承をめぐる権力闘争というところに特徴がある。

これは人類が長らく封建体制・専制体制下にあった時代に、常に繰り返されてきた現象だ。

とくに王族の血続が繋がり、また各国の利害関係が複雑に入り組んでいたヨーロッパでは、皇位継承間題がすぐに周辺諸国を巻き込む戦乱に発展した。

たとえば、18世紀には、前半だけで、この種の戦争が3つも発生している。

まずはスペイン継承戦争

1700年、子のいないスペイン王カルロス2世(*1)が没すると、ルイ14世の孫が即位。これに対し、フランスの強大化を恐れたイギリス・オランダ・オーストリアが反対して開戦。戦火はたちまち拡大し、13年のユトレヒト条約(*2)締結まで続いた。

次はポーランド継承戦争

1733年、国王アウグスト2世が死去すると、ポーランド貴族の支持でスタニスワフ(*3)が即位する。だが、ロシアとザクセンの支持をえた先王の子アウグストが反撃し、アウグスト3世として即位、オーストリアも支持をした。一方、これを不服とするフランスがオーストリアに開戦。戦いは35年の休戦まで続いた。

最後がオーストリア継承戦争

1740年、神聖ローマ帝国皇帝カール6世が亡くなると、長女のマリア・テレジア(*4)がハプスブルク家領を相続した。

これに対しバイエルン選帝侯が相続権を主張し、ハプスブルク家をライバル視するフランス・ブルボン家もそれを支援した。

また、これに乗じてプロイセンがオーストリア領シュレジエンの割譲を要求し、拒否されると侵攻。両者の戦争に発展した。さらに、バイエルン選帝侯は同盟国の支持をえて皇帝カール7世を称し、フランスと争っていたイギリスかオーストリアを支持して介入するにおよんで、戦争は全欧規模に発展した。

結局、戦争は48年まで続き、アーヘンの和約(*5)で決着した。

このように欧州の皇位継承ではすぐに戦争になるケースが少なくなかった。

さて、目を東に向けてみると、史上空前の大帝国で皇位継承をめぐる内乱が起きている。

第4代モンゴル帝国皇帝のモンケ・ハンが死去した後、第5代としてモンケの次弟フビライが「ハン」として即位。

だが、末弟のアリク・ブケも首都カラコルムで即位し、1260年、内乱に発展した。兄弟同士の戦争である。

結局、アリク・ブケが敗北し、後に「アリク・ブケの乱」と称されることになる。

だが、そのわずか6年後、今度は第2代皇帝オゴデイの孫ハイドゥが「大ハン」の位をかけて反乱を起こし、中央アジアに国家を建設(ハイドゥの乱)。

以後、ハイドゥは約40年にわたってフビライの元朝と抗争を行った。

そして1301年、高齢のハイドゥは元朝に最後の決戦を挑むが、敗北してしまい、後にチャガタイ・ハン国に吸収されてしまう。

このように専制国家は、皇位継承をめぐる内乱を常にはらんでいるのだ。

(*1)在1665~1700年。スペイン・ハプスブルク家出身の最後の王。

(*2) フランスとスペインが合同しないことを条件に、ルイ14世の孫フェリペ5世がスペイン王として承認された。以後、スペインはブルボン系となる。その他、イギリスがフランス・スペインから植民地の一部を割譲した。

(*3) 1704~9年までポーランド国王を務め、33~36年の間 に再び即位する。

(*4)在1740~80年。女帝。先カール6世の娘で、即位後はオ ーストリアの富国強兵に務め、後に息子のヨーゼフ2世と共同統治をした。

(*5) マリア・テレジアは、この条約によってオーストリアの帝位継承権を正式に認められた。

「銀英伝」には歴史が満ちている――気ままに歴史ネタ探求

歴史ネタ編目次 http://anime-gineiden.com/page-890

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