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【銀英伝】銀河帝国のフェザーン遷都【歴史ネタ】

歴史ネタ編

さて、イゼルローン共和政府樹立の動きと時を同じくして、帝国でも大きな動きがあった。宇宙暦800年、新帝国暦2年7月、カイザー・ラインハルトの勅令により、国の首都が正式にフェザーンに移転することになったのである。

もちろん、ラインハルトが皇帝に即位した宇宙暦799年、帝国暦490年(新帝国暦1年)6月の頃から、すでに工部尚書シルヴァーベルヒに「帝国首都建設長官」という役職を与えて計画に着手させたように、あくまで既成の決定事項を正式に表明しただけであった。

これにより全閣僚から下級官吏、及びその家族にいたる100万人以上がフェザーンに移住することになった。そして、フェザーンという支配宙域の地理的中間地点から、史上空前の星間帝国が統治されることになった。

帝国の為政者が遷都を行い、歴史に新たなページを切り開く・・・。

これは歴史上、たくさんの実例がある。

古くは前14世紀後半、古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(*1)が、都をテーベからテル・エル・アマルナに移した事例がある。

王は、さらに信仰まで、それまでのアモ・ラー中心の多神教から、太陽神アトンの一神教に替えてしまった。

だが、次のツタンカーメン王の時代に、都も信仰も元に戻される。

また、ローマ帝国で初めてキリスト教を公認したことでも知られるコンスタンティヌス帝(*2)の遷都も有名である。

現在の様子。オスマン帝国時代に大聖堂はモスクに改装された。

330年、帝は、現在のトルコの首都イスタンブールの位置にあったビザンティオンを首都に定め、自分の名前をとってコンスタンティノポリスとして、ローマ帝国の中枢をここに移転した。そしてローマ帝国は東西に分かれた。

これにより、ゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国(*3)は首都を中心に繁栄を続け、1453年にオスマン帝国(*4)によって首都が陥落させられるまで、1千年間も存続した。

ただ、王朝が代わることで遷都が実施されたという点では、『銀英伝』の例は比較的、中国に近いのかもしれない。

中国ではより頻繁に遷都が行われている。

それまでの中華の統一帝国の首都といえば、秦の咸陽から、漢・隋・唐の長安にいたるまで、現在の西安(シーアン)付近に定められることが多かった。

だが、960年、趙匡胤(ちょうきょういん)は「宋」を開闢すると、都を洛陽よりもさらに黄河の下流に位置する「開封」に定めた。

この開封は、11世紀から12世紀の間、世界でもっとも経済繁栄した都となった。

清明上河図 Along the River During the Qingming Festival

しかし、次第に勃興してきた女真族の「金」から北方を圧迫され、開封を占領されると、宋は1127年に都を臨安(現在の杭州)に定める。

だが、しばらくしてモンゴル帝国が怒涛の勢いで南下し、「金」を滅ぼし、宋に迫った。

第5代フビライは、帝国の都をそれまでのカラコルムから大都(後の北京)に移し、1271年に「元」を開闢した。そして、すぐに南宋も滅ぼして全中国を統一した。

モンゴル帝国は史上初の世界帝国とも言われ、ユーラシアの東西世界を繋げた。

しかし、1368年、今度は朱元璋が「明」を建国すると、彼は都を金陵(後の南京)に定めた。そして、元を北方に追い返し、全中国を統一した。

だが、第2代皇帝建文帝が即位して諸公の抑圧政策をとると、地方最大の権勢家である燕王が挙兵。第3代皇帝永楽帝となり、1421年、北京に遷都。

この都は後の清帝国、さらには現代の人民中国にも受け継がれた。

このように、中国史を見ると、頻繁に首都移転が行われている。

なお、銀河帝国と類似した社会体制であるロマノフ王朝の例となると、ロシアの近代化を促進したピョートル大帝が遷都を実現している。

18世紀前半に、バルト海に面した都市ペテルブルクを建設し、モスクワから遷都した。

さて、銀河帝国の新首都星フェザーンでは、シルヴァーベルヒによって「獅子の泉 (ルーヴェンブルン)」と呼ばれる新居城の設計が開始された。

ただし、ラインハルトは、その完成を見ることなく逝ってしまう。

だが、爆殺されてしまったシルヴァーベルモが造ろうとしていたものは、「かつて人類が見たこともないようなもの」だという。

このラインハルトとシルヴァーベルヒのようなコンビを探せば、例えは悪いかもしれないが、ヒトラーとベルリン建設総監の建築家シュペーアのコンビを思い出してしまう。

当時、彼らが第三帝国の首都として建設しようとしていたものは、それこそ空前絶後の巨大建造物の群れであった。

その名も「ゲルマニア」

ヒトラーの構想では、未来のベルリンは、幅100メートル以上の大通りが市の中心部を交差し、パリのそれの2倍以上の高さのある「大凱旋門」や、高さ250メートル近い18万人収容可能な巨大ドーム・ホール(*5)がそびえ立っている予定であった。

もっとも、ラインハルトは巨大建造物などにまったく興味はなかったようだが・・。

(*1)在前1380 ~1362年? 当時のエジプトは都テーベの神官団の勢力が王権を脅かすまでになっていたという。そこで王は遷都と宗教改革を実施したという。王名もイクナートンに改めた。

(*2)在324~337年。軍人出身。副帝時代に内乱に勝利し正帝に就く。313年「ミラノ勅令」で信仰の自由を認め、325年の「ニケーアの公会議」ではアタナシウス派の「三位一体説」をキリスト教の正統とした。

(*3) 「ビザンチン帝国」という呼び名は近代に付けられたもので、彼ら自身は「ローマ帝国」を称していた。

(*4) 1299~1922年。中央アジアからきたトルコ系オスマン家によって開かれる。セルジューク朝の一領主だったが、1299年に独立。以来ビザンチン帝国から領土を奪い、拡大していった。1402年にサマルカンドを都とするチムールに破れ、一時、王朝は断絶するが、メフメト1世が再建。スレイマン帝の時代に帝国の版図は最大となり、地中海を征した。

(*5) しかも、建材は鉄筋コンクリートなどではなくて、ヒトラーの強いこだわりにより、石材が使われる予定だった。その切り出しには大量の「劣等人種」の労働力があてられることになっていたという。

「銀英伝」には歴史が満ちている――気ままに歴史ネタ探求

歴史ネタ編目次 http://anime-gineiden.com/page-890

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