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【銀英伝】ロイエンタール元帥反逆事件、帝国軍相討つ【歴史ネタ】

歴史ネタ編

ヤン・ウェンリー亡き後、ロイエンタール元帥は「新領土総督」として旧同盟首都星ハイネセンに赴任することとなった。将兵500万以上を従え、旧同盟領全域の政治・軍事のことごとくを指揮する身である。

「皇帝ラインハルト自身につぐ、これは銀河帝国において第2の強大な武力集団であった」(第7巻)。

だが、ロイエンタールに私怨を抱くラングは、ルビンスキーと結託して彼を陥れる陰謀を画策し始める。

まず、悪辣な噂(*1)が広められた。

そこでロイエンタールは、その真偽を確かめるべく、カイザー・ラインハルトにハイネセンへの御幸を招請した。

こうして宇宙暦800年、新帝国暦2年10月、ロイエンタールは「ウルヴァシー事件」(*2)によって決定的にカイザーへの反逆に追い立てられてしまう。

だが、彼は、何者かの陰謀によって自分が犠牲の祭壇に捧げられるくらいなら、いっそうのこと自らの意志で反逆する道を選ぶ。

かくして、新帝国成立以来の内乱の開始であった。

この事件を単純かつ客観的にみた場合、地方の有力者が中央に対して反逆したというふうに解釈することができる。となると、これは中国史に非常に多い事例である。

たとえば、古くは「呉楚七国の乱」がある。

前154年、漢の第6代景帝の時代、劉氏一族の7人の諸侯が中央に対して反乱を起こし、わずか3カ月で鎮圧された出来事だ。

もっとも、この場合は、皇帝の専制体制下で一官吏が反逆したという事件ではなく、封建体制下(*3)の領主が反逆したという性質のものなので、ロイエタールの例とは少しニュアンスが違うかもしれない。

むしろ、唐代の「安史の乱」の方が類似しているかもしれない。

755年、辺境の三節度使を兼ねていた安禄山が挙兵して、都・長安をおとし、部下の史思明がその乱を引き継いだ出来事である。

映画「空海」の一場面 第9代玄宗と安禄山 An Lushan

ロイエンタールが軍権と政治の両方を掌握していたように、節度使の安禄山もまた兵権と財政・民政権の権限を有していた現地総督であり、領主ではなかった。

当時、玄宗皇帝の寵姫・楊貴妃(*4)の一族である楊国忠が政治の実権を握っていたが、安禄山の挙兵は、このいわゆる「奸臣」との対立が原因であった。

それを考えると、ロイエンタール反逆の過程と、彼の駆使した論理とが、いっそう中国史的であるように思える。

ロイエンタールが「敵」としたのは、「奸臣」すなわちオーベルシュタィンとラングであった。彼がラインハルトに送り付けた通信文にも、それがよく表れている。

「それは『軍務尚書オーベルシュタインと内務次官ラングの両名が、国政を壟断し、皇帝を無視してほしいままに粛正をおこなっている。自分、ロイエンタール元帥はそれを看過しえず、必要とあれば実力をもって彼らの専横を排するつもりである」というものであった」(第9巻)

さらに、「ロイエンタールは『カイザーに背くにあらず、奸臣どもを討つ』と兵士には説明していた」(OVA95話ナレーション)という。

この辺りの事情は次のように説明されている。

「皇帝ラインハルト自身にとくに失政がない以上、『君側の奸』を弾劾するのは、叛逆者としては当然の論法であった」(第9巻)

実はこれとよく似た例が明代にあった。「靖難の変」である。

1398年、明を建国した洪武帝(*5)が死去すると、第2代として孫の建文帝が即位した。

若干16歳の帝は、側近のアドバイスにより、強大な権勢を誇る叔父たち(つまり開祖の皇太子たち)の勢力を削ぎにかかった。

これに反抗したのが、当時、北京にあって北方の護りを担当していた燕王(*6)である。首都南京から見れば、遠方にいて自身の軍を持つ集団だ。

その燕王が中央に挙兵した際の論法は、「天子は側近の奸臣にまどわされている。この『君側の奸』をのぞいて天子の難を靖んじる」という趣旨であった。

これはロイエンタールの主張と実によく似ている。

Yongle Emperor 「君側の奸をのぞく」を挙兵の大義名分とした燕王(後に永楽帝)

もっとも、都の金陵(南京)が陥落すると、帝は自殺し、結局、燕王が第3代皇帝永楽帝として即位した。

また、同じ明代の「寧王の乱」も1人の野心家が起こした挙兵の例であった。

1519年、朱宸濠(しゅしんごう)は、帝位算奪の計画が露呈すると、10万の兵をもって南京に進撃した。

朱宸濠は、第11代・正德帝が豹房(*7)で淫楽にふける一方、宦官の劉瑾(りゅうきん)が実権をにぎって専横をほしいままにしていたのをみて、算奪を決意。周到に計画を立てていた (もっとも反乱時の何年も前に、すでに劉瑾は帝に処刑されていた)。

そういえばロイエンタールも、新領土総督就任以来、オーベルシュタインを仮想敵として帝国本土に対する政戦両略を研究していたそうだ。

彼の反逆の様相は、まるで古の中国で繰り広げられた歴史絵巻のようである。

(*1) 「カイザーの病に乗じてオーベルシュタインとラングによる国政の壟断がまかり通り、ロイエンタールの粛正を進言している。一方、ロイエンタールの方はカイザーを新領土に招請して暗殺の陰謀をめぐらしている」というもの。

(*2)旧同盟領のウルヴァシーにある帝国基地で、行幸の際に立ち寄ったカイザー一行が現地の帝国軍兵士らによって襲撃された事件。この暗殺未遂事件により、護衛にあたったルッツが死去した。

(*3)漢代の初期は、中央から派遣した官吏によって都長安を中心とする直轄地を統治したが、地方は皇族や功臣に与えて封建的に支配した。これを郡国制という。ただし、武帝の時代には中央集権に改められていった。

(*4) 719~756年。玄宗皇帝の第18皇子の妃であったが、玄宗が寵姫としてむかえた。人妻であったために、一度、道教寺院の尼にしてから宮中に入れたという。玄宗の寵愛を一身に集めた。彼女の一族は高官職に就き、中でも楊国忠は宰相として権勢をふるった。「安史の乱」では玄宗と共に長安を脱したが、兵士たちは亡国の元凶として楊国忠を斬り、楊貴妃の処断も要求した。この悲劇を歌ったのが、白居易の「長恨歌」である。

(*5)朱元璋。1328~98年。貧農の出身。紅市軍に参加し、たちまち頭角を現した。68年に帝位に就く。中央集権体制を樹立し多数を粛正した。

(*6) 1360(在1403) ~1424年。開祖の第4子。北方にあってモンゴルからの防衛の任にあたっていた。1399年挙兵。02年即位。21年北京に遷都し紫禁城に入る。モンゴルに繰り返し親征を行った。05年以降の鄭和の南海大遠征は、ヨーロッパの大航海時代と比較して、時期もスケールも先んじていた。

(*7) ハーレムの物凄いやつらしい。

「銀英伝」には歴史が満ちている――気ままに歴史ネタ探求

歴史ネタ編目次 http://anime-gineiden.com/page-890

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