マキアべェリズムとは何か?
銀英伝では政治手法として「マキアべェリズム」という言葉が登場する。
とくにオーベルシュタインの政治手法がそれであると考えられている。
一種の現実主義であることは論を待たないが、具体的に何を意味しているのだろうか。それを説明するためには、何よりもまず、フィレンツェの政治家・思想家であったニコロ・マキアべェリ (1469~1527) という人物について述べなければならない。
正確には、ニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli)は、イタリアはフィレンツェにおいて、法律家の父の下で生を受けた。著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』などがある。
マキアべェリ彼が生まれ育ったのは、都市国家フィレンツェが激動の時代をむかえていた時期であった。
ロレンツォの下でのメディチ家の全盛期、仏王シャルル8世による突然のイタリア侵入、ロレンツォの息子ピエロの追放による共和制の復活、サヴォナローラの神政政治、そして異端とされた彼の奨刑・・・などなど、世相が目まぐるしく変化していた時期だった。
その後、市民に人気のあったピエロ・ソデリーニを首班とした共和政権下で、マキアべェリは1498年に書記官職をえた。29歳の時である。
彼はすぐに一事務局の局長に昇進すると、以後、14年間にわたりフィレンツェの外交・軍事などの重要職務を担当した。
マキアべェリは熱心な共和主義者として、小国フィレンツェの国益のために周辺諸国との外交折衝に奔走した。ある時は諸都市との間で条約を締結したり、議定書の草案作りに励んだりした。また、国際政治の生の現場を見て、傭兵が頼りにならないことを痛感し、フィレンツェ国民軍編成に尽力したりもした。
だが、1512年、教皇の力をバックにメディチ家の政権が復活してしまう。この時にマキア ベェリも職を追われて、以後、彼は思索と著述活動に励むことになる。
さて、彼は官職中からたくさんの著作をしたためているが、もっとも有名なのが『君主論』と『ローマ史論』である。そして、彼をして不朽の思想家たらしめているのが、免職の翌年に執筆された『君主論』である。
『君主論』は、国家や政治、人間というものの本質を、道徳的な観念から切り離して論じたということで、近代政治学のはしりであるとも言われている。つまり、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論だある。
豊富な外交経験から国際政治の厳しい現実を認識していたマキアべェリは、この書の中で、現実に必要とされる新しい君主像を提示した。
すなわち、正義と道徳の担い手としての君主ではなく、「獅子の勇猛さと狐の狡知」を兼ね備えた君主こそ必要であると論じたのである。
彼は、甘い理想論を捨てて、現実にそういった君主ほど、国家の偉業と平和に貢献できるものであると考えた。マキアべェリは言う。
「信義を守ることを気にしなかった君主の方が、偉大な事業を成し遂げている」
「自らの安全を自らの力によって守る意志のない国は、独立と平和を期待できない」
「君主は愛されなくても、恐れられるべきである」
「結果さえ良ければ、手段は常に正当化される」
このように、その論は物事の本質に常に迫っている。
このような、政治目的を達成するためには、倫理・道徳に反する権謀術策もやむなしとする彼の考え方は、当時、彼の仕えたフィレンツェという小国の悲哀を反映したものであるといわれている。そして、後世、このような「目的達成のためには手段もいとわず」という姿勢を指して、「マキアべェリズム」という言葉が定着した。
しかし、ここで誤解してはならないのは、マキアべェリが従来から現実に存在していた政 治力学を言語化してみせたということであって、何も悪魔的な思想が彼によって新たに発明されたわけではないという点だ。
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