結局、ヤン・ウェンリーとは何者だったのか? 何を志していたのか?
寝たきり青年、落ちこぼれの新任士官、ごくつぶし・・・などと言われたこともあるヤン。 彼の希望は一貫して歴史研究家になることだった。
だが、ヤンはなぜ歴史研究を志したのだろうか。もちろん、歴史が好きだからである。では、なぜ歴史が好きだったのだろうか。この答えを見つけることが、彼の本質に迫る一つの方法ではないか。
ヤンが欲したただ一つのもの、ヤンが追い求めたただ一つのもの、それは「真実」ではなかったか。「真実」を知りたいという欲求が心の奥底で沸き立っていたからこそ、彼は人類の営みの観照者たることを欲していたのではないだろうか。
そして、その「真実」とは、究極には「人間とは何なのか。人間の社会とは何なのか。宇宙・世界・この世とは何なのか」ということではなかったか。
意識しているにせよ、していないにせよ、彼は人間とその世界の実相という哲学的な命題を解決することに執念を燃やしていたように思える。
ヤンにとって、そのための最高の道具でありガイド役だったのが、歴史を学ぶということだったのではないだろうか。
そして、その「真実」に一歩一歩近づいていくことに、彼は人生の喜びと幸せを見出していたのではないだろうか。
もちろん、言うまでないが、これは単なる私の勝手な仮説に過ぎない。
ただ、どんな人間でも、たとえ狂人や怠情な人でも、必ず何かを愛し、何らかの情熱を持っていると言われている。
もちろん、この点はヤンも例外ではありえず、彼は「生活無能力者」でありながら、歴史研究に関しては別人のように情熱家だった。そして、彼の情熱を駆り立てたものが、「真実」に近づきたいという湯望だったように思えるのだ。
通常、このような生き方は、俗人のそれよりは宗教家や求道者のそれに近く、とうてい凡人の理解の及ぶところではないだろう。
そもそも、人間には本質的に善人も悪人もおらず、ただ人生の目的や価値をどこに置くかという違いがあるだけ、という考え方がある。
もちろん大抵の人々は、個人的な欲望の充足に血眼になり、そうでない極少数派の人々を変人とみなすこともある。世俗の栄光と肉体的な欲求を満たすことを人生の目標に定めている人には、そういった物質水準を超克した人間の内面性や生き方といったものはほとんど理解の範囲外だ(*)。
だが、まさにヤンが、その種の人間であるように思えるのだ。
ヤンの言動や行動をみていると、個人レベルに限定された事柄には、ほとんど関心がないようにみえる。せいぜい、うまい紅茶と酒が飲みたいとか、早く年金をゲットしてブラブラしたい、といった程度である。つまり、個人的な欲望が非常に少ない。
彼は職業軍人として、また用兵家として、心ならずも戦略や戦術面の構想といった俗事にかまけることを余儀なくされていたが、実際には国家の相違に左右されない「人類全体の普遍的利益」というものを常に念頭に置いて思考・行動していた。
そう、彼は自分のことよりも、人類という巨大な共同体の行く末に最大の関心を払っていたのだ。ヤン自身は決して口に出していないが、彼が自分の立場を使ってやりたかったこと、やろうとしていたことは、明かに「人間社会への奉仕」である。
いささか気恥ずかしい言葉だが、時代の進歩に尽くすという、そのような歴史の実践者としての役割を担わされた自分を、彼は半ば撫然と顧みながらも、その義務と責任に対し忠実でありつづけた。
そういう意味で、ヤンとラインハルトは、明かに精神的近似者である。二人とも人類に対する責任感と義務感で動いていたからだ。ヤンは自分の父親を変人よばわりしていたが、彼も世間的にみれば立派な(?)変人である。
もちろん、それは、「功績においては英雄であり、思考においては異端者であり、言行においては疎外される者であった」(外伝1巻)という評のように、彼がその他大勢とは一味違った個性の持ち主だからである。
はっきり言えば、彼は凡人たちより頭ひとつ抜き出た精神的素質の所有者だったため、他人に理解されず、また当人も周りの人間たちを手本とできなかったのだ。
ゆえに、ユリアンが、「ぼくにはヤン提督という師父が存在するけど、ヤン提督は誰にも頼らず、誰の模倣もせず、自分で自分の能力と識見と人格を育て、つくりあげたのだ」(外伝2巻)と語っているように、彼はあくまで自己啓発によって内面の充実をはからざるをえなかったのだ。
ヤンは「歴史」という窓を通して人間とその世界を見つめることが可能だったため、特別に普遍的な判断基準を持つことができたようだ。
「ヤンは戦争の実行者であるより構想家であり、構想家であるより哲学者であり、哲学者であるより批判的観察者であった」(外伝3巻)というが、彼は物事の本質を射貫くという点にかけて、明かに天才の一種であった。
ヤンは、周りの誰もが見えないことを見、また知りえないことを知ることができたのである。そんな人間の生き方は、とうてい常人の水準で理解しえるものではないだろう。
結局、ヤン・ウェンリーとは、どのような人間だったのか。
おそらく、「真実」を追究 するということに、何よりも生きる情熱と目的を見出す「学究の徒」であり「求道者」で はなかったかと、そう思えるのである。
(*)ちなみにヒンズー教では、執着や欲望の度合いを、その人間の霊的な水準をはかる目安と考える。その水準が高い人ほど、物質的なものに対して「禁欲的」ならぬ「無関心」なのだという。
ヤン・ウェンリーと同盟軍の仲間たち――イレギュラーズ伝説
同盟キャラ編目次 http://anime-gineiden.com/page-366
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