【銀英伝】民主政から専制へ――政治政体の反動【歴史ネタ】

さて、銀河連邦は「中世的停滞」に陥り、「民主的共和政治は自浄能力を失い、利権や政争にのみ食指を動かす衆愚政治と堕した」(第1巻)。ずいぶんとどこかの国に思い当たる話だが、結果、独裁者を生み、ついに専制政治という怪物を誕生させた。
かつて古代ギリシアのポリビウス(*1)は「政体循環論」を唱えた。
君主制→専制→貴族制→民主制→衆愚制→君主制と政体が循環することをいうのだそうだが、これはともかく、政治政体の反動という現象は歴史において例があるのだろうか。
古代世界ではローマの例が顕著である。
ローマはまだ都市国家に過ぎなかった時代にエトルリア人(*2)の王を追放し、貴族共和制を確立してから、王を戴かないことを国是としてきた。
その伝統は紆余曲折をへながらも守られてきたが、ついにカエサルによって命脈が断たれたことは今述べた通りである。
だが、カエサルが共和派によって暗殺されると、再び内乱が生じ、オクタヴィアヌス(*3)が実権を握った。

彼は独裁権力を手中にしたが、あくまで王の位を拒否する形式を突いた。
彼は突然、全権力を元老院に返還し、共和制を復帰させたが、元老院はうやうやしくそれを返還した。茶番劇である。前27年のことだ。
以来、共和制は二度と復活せず、ローマは帝政へと移行する。
そして、3世紀後半のディオクレティアヌス帝(*4)の時には、皇帝は神的権威と化し、市民も臣民となった。
つまり、ローマは共和制から帝制、そして専制へと政体を変化させたのである。
さて、政治政体の変動といえば、フランスほど忙しい国はない。
ナポレオンが対仏大同盟(*5)に破れ、フランス帝国が崩壊すると、再びブルボン王朝が復活した。ルイ18世、次いでシャルル10世は市民の権利を制限する反動政治をすすめる。
そこでパリ市民は再び決起し、国王側を打倒(7月革命)。1830年、オルレアン家のルイ・フィリップ(*6)を国王に推戴し、立憲君主制を確立した。
しかし、制限選挙や大資本家に対する不満が市民の間に募り、選挙法改正の運動が激化。改正の要求が拒絶されると、48年、パリ市民は三度決起し、第二共和制を確立した。
だが、その後の大統領選挙でナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン(*7)が当選。彼は51年にクーデターによって独裁権を手中にし、さらに翌年、国民投票で「皇帝ナポレオン3世」となる(第2帝政)。だが、当初の専制政治はしばらくして穏健化し、普仏戦争でナポレオン三世が捕虜になると、今度は第三共和政が成立する。
このフランスの「革命→反動→革命→反動」というプロセスは、民主政治の定着がいかに困難であり、かつ試行錯誤を要するかを示している。
そして、それはフランスのお隣りのスペインにも当てはまる。
19世紀後半にスペインは一時、共和国となったが、すぐに王政派の巻き返しで、ブルボン家が復古した。だが、1931年の世界恐慌時に再び革命で共和制が樹立。
しかし総選挙で支持をえた人民戦線内閣に対し、フランコ将軍(*8)率いる軍部が反乱。内乱の結果、39年にフランコの独裁政治が成立した。
以後、フランコ独裁は36年間も続くが、75年にフランコが死去した後、フアン・カルロス王子が国家元首に就任し、暫定的王政の開明政策ですぐに立憲君主制に改めていった。
1970年代といえば「現代史」の範疇に入るが、この時期に、一時的にせよ西側諸国の一角で「王政」が行われた史実は、まことに興味深いものがある。
民主政治の健全な運営は、市民側の高い政治意識を必要とする。だから、市民の政治的民度が低下し、政治への参加をめんどくさがったりすれば、たちまち衆愚化し、権力への監視体制がゆるむ。すると、権力者が本質的に有するエゴイズムが暴走し始める。
彼らが警察と軍隊を怒意的に動かせるようになれば、もう誰も止められなくなる。
そういった反動の悲劇的な例が第一次大戦後のドイツであろう。
1918年、敗戦を契機にドイツ帝国が崩壊し、社会民主党政権が誕生した。新政府は当時もっとも民主的とうたわれた「ヴァイマル憲法」を制定。男女の普通選挙と国民主権を原則とする共和政体として出発した。
だが、敗戦国ドイツにあまりに苛酷なベルサイユ条約と経済恐慌とが、政情を不安定にし、帝政派のクーデターやヒトラーのミュンへン一揆などを招来してしまう。
やがてドイツ国民はナチスの国家主義的主張へと傾斜し、共和制よりもヒトラーの独裁を選択し、破局へと猪突していった。
最後に喜劇的ともいえる反動の例を紹介しよう。
文字通り大陸の真ん中にある中央アフリカは、フランスの植民地だったが、1958年に自治共和国と化し、60年には独立。
だが65年、軍部がクーデターを行い、ボカサ大佐が独裁者となる。
終身大統領となったボカサは、77年「中央アフリカ帝国」の「皇帝ボカサ1世」などと称して、世界の最貧国にも関わらず国家予算の2倍を使ってナポレオンを真似た戴冠式を行った。
もちろん世界中の物笑いの種である。
その後、ボカサはクーデターで追われ、中央アフリカは再び共和制になるが、三度クーデターが起こり、軍事政権が発足。現在は民政へと移行し、民主化の最中である。
政治というものは、反進歩的な方向へも動く。それは歴史が証明しているのだ。
(*1)前203〜前120年。ギリシアの政治家・歴史家。エジプトに外交使節として赴いたり、ローマに連行された経験をもつ。アフリカへ渡った時、前146年のカルタゴの陥落を目撃した。歴史書40巻の大著がある。政体循環論はこの書の中で論じられた。
(*2) イタリアの先住民族。起源については渡来説・土着説など諸説がある。前6世紀にローマを支配したが、前4世紀には逆にローマに征服され、後に滅ぼされる。
(*3)前63(在27)~後14年。カエサルの遺言によって彼の養子となり、アントニウス、レピドゥスらと第2回三頭政治を行う。前31年、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を撃破して、内乱を終結させる。元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を送られる。
(*4)在284~305年。一兵士から出世して親衛隊長、そして軍団をバックに皇帝となる。帝国を東西に分け、それぞれ正帝・副帝を置く4分統治制を始めた。臣下に跪拝礼をさせるなど、宮廷儀式をオリエント風に改めた。
(*5)第1回はイギリス首相ピットの呼びかけで結成された。第5回まで行われ、その度に諸国はフランスに対抗した。
(*6) 1773~1850年。オルレアン家フィリップ公の長男として生まれ、革命軍に身を投じた。大貴族であるが自由主義者として知られる。第二共和制成立後はイギリスに亡命した。
(*7) 1808~1873年。オランダ王ルイ・ボナパルトの子として生まれる。
(*8)1892年生まれ。陸軍人。若くして外人部隊司令官となる。資本家や地主、教会の支持をえて左翼勢力に対抗し、ファランへ党の独裁体制を築いた。
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